昨日の夕方は、多摩川であかり散歩。
見切り発車で・・・
ボールを発見!
ここからキャッチのアクションに入ります!
(つづく)
朝のジョギングで、夜の宿までの道すがらで。
ちょっとでも楽しみを見つけようと、Snapshot。
(つづく)
少しづつ、お店が再開していましたね。
ビジネス街はもっと沢山のお店(飲み屋)が再開していましたが、この辺りはまだチラホラ、という感じでした。
夜の飲み屋街に、光が燈っているって、何だか幸せですね。
(つづく)
久しぶり?に出張でバタバタしていました。
緊急事態宣言解除で、少しずつ街の雰囲気が変わってきました。
私の会社も来週から通常出社になるようです、根本的な問題は何も解決されていないハズなのに…。こういう判断を見ると、今まで何のためにやってたんかな?って思います。安全と健康の為では無かったのね。
(つづく)
亀ランナーとは言え、毎年複数のマラソン大会に出場していたあかりぱぱですが、昨年とある仕事を担当してから、走る頻度が落ちてきています。そして、今年に至っては(大会も次々と中止になって)全くといってよいほど走っていませんでした。
とは言え、所謂マラソンを目指して走ってはいませんでしたが、ランニングぐらいは細々と続けていました。ランニング? うーん、ジョギングかなぁ。
普段は駒沢公園などを走っていたのですが、緊急事態宣言が出てから一度行ったら凄い人! あまりに人が多かったので、4月の初旬以来行くのを辞めました。
運動不足になりがちだからジョギングをする人が増えたんでしょうね~。
…で、上の写真のような、ただの住宅街をゆっくりゆっくりジョギングしています。出来ればマスクを付けたくないので、人のいないところ、人とすれ違うのでも距離を保てるところ…となると住宅街。大体道路幅が4mぐらいはあるから、人がきても反対側を走ればOKかな。一応マスクを持って、人が多いところではつける、というスタイルで走っています。
ただの住宅街でも、私は走っていると楽しい。もともと街をブラブラする番組「ちい散歩」とか好きだし、ブラタモリも好き。今は、街ブラ番組って結構増えましたよね。
昔は、自分の名前に「じゅん」があるものだから、自分で「じゅん散歩」と言って街ジョギングでのスナップショットをSNSとかに挙げてたっけ(最近SNSしないなぁ)。
だから、住宅街をジョギングしていても、街を見たり、家(建築)を見たり・・・で楽しめます。そして、そんなジョギング中に会ったら立ち寄るのが社寺仏閣。私の住んでいるエリアにも、ジョギングの範囲に沢山の神社がありまして、それらを見つけると覗いたり写真撮ったりするのも好きだったりします。
今回は、そんなジョギング中に撮った神社の写真を、最近購入したiPhoneSEに入っているデータからピックアップしてみました。久しぶりにiPhoneからブログに写真をアップしましたが、選択するだけだから楽ですね ♪ …と、手軽なのでついつい沢山写真をアップしました。まるで、神社巡りブログみたいになっています。
さぁ、2020年神社の旅。あかりぱぱのジョギング散歩、じゅん散歩、神社散歩をバーチャル体験するかごとく、この記事を最後まで読んでみてください(笑)!
【目次~今回の社寺仏閣】
では、行ってみましょう!
常圓寺は、目黒区八雲の地に420年の時を刻んで来ました。仏陀釈尊と日蓮聖人の教えにもとづき、いのちを尊び、誰もが安穏で心豊かに過ごせる社会を築く。それが私たちの願いです。
そこで常圓寺は、祈り、学び、修行の場として、さらにさまざまな文化活動の場として、私たち一人ひとりの生き方を考え、実践するお寺でありたいと思います。
未来に向けて、人と人の交わりを通して意義ある空間を紡いでいきます。
(常円寺WEBSITEより)
立派な木ですね~。
都立大学付近にあったお寺さん。銀杏の木が立派に立っていました。
こちらも都立大学付近の小さな神社。良く前を通るときに見ていましたが、写真を撮ったのはこの時が初めて。小さいケド、雰囲気のある神社です。
この辺りは、緑道も多くて気持ちが良いです。東京って、意外と緑が多いんですよね。
鎌倉時代の武将で源頼朝に仕えていた畠山重忠の守護神を、二俣川にて北条義時の軍に討たれた後、その臣榛沢六郎が交付し宮野佐近がこれを奉祀したといわれている。碑文谷の地名の起こりとなった碑文石が保存されている。創建は不詳。
(東京神社庁WEBサイトより)
ここの参道が、結構長くて雰囲気があります。
ここは凄く広い境内でした、木々も良く育ち、一つの森のようでしたね。
参道も立派。
雀のお宿公園、これは確か、誰かからの寄付で創られた公園なんですよね。
こんな緑道もあります。
そもそもこの神社は、その昔、現在の社地の隣にあった屋敷神で、それがいつのころか現在の場所に移されて、子ノ神を祭る地域の氏神になり、それが地名となったと言い伝えられている。
では、子ノ神とはだれを祭っているのであろうか。当地に生まれ育った郷土研究家富岡丘蔵氏によると、次の三説があるという。「子」とは、十二支の「子」、従って生産の神であり、台所の神でもあり、ねずみを神の使いとする大国主命(大黒様)である。一つには、主屋の鬼門よけに子の方角(北)に祭られた神。もう一つには、神代の根の国の神であり、農村では水の神とも考えられていた第六天である、としている。かつては、地名「子ノ神」を「根ノ神」と書いた例も多く見られたそうだ。
ところが、明治10年の神社明細書(品川神社所蔵)の記録によると、「摂社 高木神社、祭神 大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)」と記されていることから、やはり、大国主命、子ノ神から地名が起きたのではなかろうか。
しかし、同氏の生まれ育った明治から大正時代にかけては、太鼓をたたき題目を唱えて雨乞いをする行事が毎年のように行われており、子ノ神を第六天と信じ切っていたそうだ。どうやら、大国主命と第六天が入り交じっていたようである。往時には、社の入口に湧水池があり、前方一帯が水田となっていて、境内の入口を「せいのかみど」といって、正月の塞の神(ドンド焼)が行われていたという。
(目黒区WEBサイトより)
近いと言えば…洗足駅かな?
ここは、前をパッと通った時に非常に気になった、何か惹きつけられる雰囲気のある神社でした。地元の方が綺麗に掃除されていましたね。
・・・ここはどこだろう?
当社の創建は永禄年中(1558~1569)と誌され、北条左京太夫氏康の臣太田新六郎管内巡視の際、当所に於いて法華経曼荼羅(ほけきょうまんだら)の古碑を発掘し、その奇瑞(きずい)におり八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を創祀すと伝う。爾来、元亀・天正戦乱の世を経て慶長・元和の頃、円長寺・長慶寺の創建により別当として二寺臨年に奉仕するところとなる。旧中原街道沿道髄一の由緒深き神社として諸人の崇敬のもとに、文久3年2月社殿再建の業を起こし、明治3年11月拝殿造営、ついで明治23年再び工を起こし、明治28年11月25日本殿落成遷宮を行う。明治維新後の神仏分離により明治5年村社に列せられる。
昭和20年5月戦災により社殿焼失、昭和34年8月現社殿の造営なる。
かくて、氏子崇敬者の赤心のもと、社域の整備復興を見、雪ヶ谷の里の鎮護の神として、茲に400有余年のご神徳をもって現在の盛儀をみるに至る。( 雪ヶ谷八幡神社WEBサイトより)
水平がとれていないですね・・・。
石川台の駅からそばの雪が谷八幡神社。ここは境内に結構高低差があって、それぞれ雰囲気がありましたね。
当浅間神社は、今から八百年前の創建と伝えられます。鎌倉時代の文治年間(1185~90)、右大将源頼朝は、豊島郡滝野川松崎に出陣しました。
夫の身を案じた妻政子は、後を追ってここまで来ましたが、わらじの傷が痛み出し、やむなく多摩川畔で傷の治療をすることになりました。
逗留のつれずれに亀甲山(かめのこやま)へ登ってみると、富士山がじつに鮮やかに見えました。富士吉田には、自分の守り本尊である「浅間神社」があります。
政子は、その浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた「正観世音像」をこの丘に建てました。
村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び、永く尊崇しました。これが「多摩川浅間神社」のおこりです。
ここからの景色が凄く良かったですね。
富士山とかの写真、撮れるんじゃないかなぁ。
夕日と電車とか、撮ってみたいなぁ、と写欲をそそる場所でした。
映画「シンゴジラ」にも出てきた神社(だそうです、私は見ていません)。
高低差がある境内の上は、明るくて広がりを感じる空間があります。兎に角景色が良かったので、カメラ持ってまた来たいです。近くにはBBQっぽい事が出来るお店やフィッシュアンドチップスのお店があったりして、お散歩するのにも良い場所です。
ひっそりと佇む神社。でも夏になるとこの神社を中心に大きいお祭り?があるんですよね。お祭りの時だけじゃなくて、チャント常日頃から神社にお参りしてお手入れしてあげてほしいな、とチョット思いました。もう少し調べてみようと思っても、東京神社庁のサイトにも情報ありませんでした。
“熊野信仰”は、鎌倉時代(1192~1333年)、庶民の間でも盛んになり、現在の目黒地域からも那智熊野参拝の記録があり、その時代、信仰の厚い土地の名士たちが西方熊野に赴き、熊野本宮の御神霊を拝受して祀られたと伝えられる。
(東京神社庁WEBサイトより)
氏神様でもある、自由が丘の熊野神社。決して広くはない境内ですが、緑深く非常に良い雰囲気に包まれた神社です。場所柄、土日は自由が丘に遊びに来たカップルとかも良く来ていますね。ジョギングの時は大体ここには寄るようにしています。
氏神様ですから、最も良く訪れる神社です。
高級住宅街も走っていると楽しいですね。
センスのいい家、
お金がありそうとは思うケドちょっと・・・な家、
色々。
そんなのを眺めているだけで楽しいですね。
脳内「渡辺篤史の建物探訪」放送中!
御当社の創建は不詳であるが、御社号を元熊野神社と申し上げて居りましたが、明治四十年に村内に奉祀されておる、神明社、御嶽社、諏訪社の三社を合祀し、同時に地名を採り玉川神社と御改称致しました。
ご祭神のご神徳は広大無辺です。(東京神社庁WEBサイトより)
等々力駅近く?の神社。こちらも大きなお祭りがありますよね~。
東京はお祭りも多いという印象です。今年はどうなるのかな~。
等々力渓谷。駅から5分もかからずに、この雰囲気ですからね。よく散歩に来ます。
等々力の御不動様と親しまれる等々力不動尊は、真言宗中興の祖である興教大師様が夢のお告げにより開かれた霊場です。
あるとき、興教大師様が信心する役之行者作の御不動様が夢に現れ、関東に結縁の地があると告げられます。
その御不動様を背負って関東に入ると夢と同じ渓谷があり、錫杖で岩をうがつと玲瓏と瀧が流れ出しました。
そこに捧持の御不動様を安置した、というのが等々力不動尊の始まりです。
現在の山門は、昔の満願寺山門を移築したものとなります。そこにはかつての満願寺の空気が流れています。
等々力渓谷を擁しせせらぎのある境内には、四季折々に花が咲き、鳥が訪れ、春の桜や秋の紅葉の美しさは格別です。
等々力不動尊では、年間を通して様々な行事を開催しています。
自然の変化を楽しみながら、日本の伝統や文化に触れていただければ幸いです。
場所が場所だけに、緑にあふれる神社。ここも良くジョギングで来ました。写真を撮るのにもイイかもですね。
源頼義公が、永承六年安部一族定のために尾山の地に陣を張り勝利を誓い、そして康平五年(1063年)安部一族を平定し、ここに八幡社を建て神に勝利を報告し感謝したのが当社の起りであります。また境内に五世紀頃の八幡塚古墳があります。
(東京神社庁WEBサイトより)
尾山台にある神社。この辺りは環八のすぐそばと思えないぐらい良い雰囲気の住宅街ですね。そんな中、割と地味と言ったら失礼かもしれませんが、落ち着いた雰囲気の神社。それでも「世田谷区で最も南に位置する神社。遠方より参拝多数有り」と特徴と意外な事実を持つ神社。
「九品仏」の名で親しまれております当山の正式名称は「九品山唯在念佛院淨眞寺」と号し、浄土宗に属する寺院でございます。
開山は江戸時代初期の高僧「珂碩上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝六年(1678)に奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典「観無量寿経」の説相によって諸堂宇を配置し、九躰(九品)の阿弥陀佛像を安置し創建されました。諸堂宇は「江戸名所図絵」(1836発行)に描かれている配置とほとんど変わりなく現在に至っております。
(九品仏浄真寺WEBサイトより)
こちらもたまに訪れる九品仏。綺麗な境内で雰囲気があります。
ここも参道が雰囲気ありますね。
昭和9年(1934)8月、地涌教会として浅海家の地所内に創立。浅海妙光が衆生救済の道に進むことこそ、亡き夫鋠蔵並びに先祖の菩提を弔う唯一の方法として出家し、一宇を建立した。第二次世界大戦末期までは多数の信者を教化し、道場は発展したが本堂・庫裡は強制疎開を命じられ、信徒も空襲などにより四散し、衰退した。戦後、寺院としての再興を計り、昭和24年に妙光寺と改称した。33年には本堂・庫裡が再建、境内地も整備された。
服飾店や雑貨店、レストランが住宅街に点在し、洗練された街並みの中に寺院がある。
(日蓮宗東京都西部宗務所WEBサイトより)
こちらは中に入ることは出来ません。ジョギング中にチラッと横を見ていました。
改めて写真に撮ってみました。
ありがたそうなお名前の神社ですが、東京神社庁にも情報が無かった神社。
とっても小さい神社ですが、ちゃんと地域の人が気にかけていることを感じる、小さいながらに何となくバイタルのある神社でした。
東玉川神社の社殿は、約400年前の建物(昭和14年に渋谷の地より移築)で、向拝殿の天井板には、みごとな火焔龍神像(正面座臥)が水墨で描かれており、あたりを祓う高位尊厳と、龍気のすざましさが火焔となって立ち昇り、邪悪を祓う御姿です。
(東京神社庁WEBサイトより)
ここ、前の道は何度も通っていたのですが、神社自身には長い間気が付きませんでした。入り口前には交番があって、そっちに目が行くからかなぁ。
入ると、ここも緑豊かな良い空間がありました。
旧稱「奥澤八幡」。室町時代の創建と伝へられる。社殿は良質の尾州桧材を用い、室町期の建築様式を採用している。9月第2土曜日に行われる「厄除の大蛇お練り」は、世田谷区無形民俗文化財に指定されている。
(東京神社庁WEBサイトより)
大蛇様が鳥居に居らっしゃいます。
子供のころだったら泣いていたこと間違いなし。
こちらも夏になると大きなお祭りが。「厄除の大蛇お練り」って言うのですね。
子供のころに、もし私がこの近所に住んでいて、「悪いことをしたら大蛇様が来るわよっ!」なんて怒られたら、すぐにおとなしくなる自信があります。
こんな風に、ブラブラと街を探索しながらジョギングしています。
うーん、これはもはやジョギングでは無く散歩ですね。
今回は神社に焦点を当てましたが、こうやって「街ジョグ」も楽しいものです。スピーディーな街散歩ですね。
東京も緊急事態宣言がどうやら解除されそうですが、これが解除されたからと言ってその日を境に急に安全になる訳では無いですから、まだまだ用心は必要なんでしょうね。
そんな時に、人通りの少ない街ジョグで、自分の住む街を新たに発見してみるのも楽しいかも知れませんね。
さぁ、Let's 街ジョグ!
(つづく)
今日、土曜日(5月23日)はトリミングに行ってきました。
綺麗になったあかりちゃんを撮ろうと思うのですが、どうもビミョーな表情ばかり。
“だって疲れているんだもん”
まーねー、でも多摩川で遊んでいる時みたいな笑顔をしてくれると嬉しいんだけど…。
つまり、トリミングしたての可愛い姿を可愛く写すには、ボール遊びに連れていくしかないのか。
でも、河川敷でボール遊びしたら絶対お風呂に入れないとダメだし、お風呂に入れちゃったらすぐに何時もの感じに戻っちゃうし…。
折角トリミングしたからこのサラフワ感をしばらく保ちたいし…
“何を悩んでいるの?”
きっとこれ、室内犬あるあるなんでしょうね~(笑)
(つづく)
今週は出張も無く、仕事もテレワーク。関東の天気は梅雨のような一週間でした。
なので、殆ど写真も撮らなかったです(iPhoneであかりちゃんの散歩中の写真を撮ってたぐらいかな)。
何時か整理して載せようかと思っていた過去の出張でのスナップショットを、バラバラと載せてみましたGoogleフォト貼り付けが今の機能停止状態から戻ったら色々載せようと思っていた写真があるのですが、まだまだ直らない感じですね・・・。
「バラバラと載せる」と言いましたが、いちいち画像データの入っているフォルダ(日付別に保管されています)から写真を探してアップロードするので、Googleフォト貼り付けの様に、「特にテーマ無く過去の写真を思いつくままに掲載」という程のテンポ感はないんですけどね。
もはやGoogleフォト貼り付け不具合発生から2か月ぐらいになりますので、このまま戻らない可能性もあるかも・・・なんて思い始めています。
Hatenaブログの写真は殆どGoogleフォト経由で貼っていたのですが、Googleフォトは撮った写真のJpegデータは(ほぼ)すべてバックアップされているので、「ブログにアップする為の写真をアップロードする」という感覚がありませんでした。Googleフォトは撮った写真が自動でバックアップ・アップロードされているので、ブログに写真を貼るときは、「Googleフォト貼り付け」から写真を選ぶだけ。今考えれば便利でした。
対して、今はFlickrでも「写真を投稿」でも、一度改めてアップロードするというプロセスが入るので、そこで改めて掲載用の写真を選定する、という行為が発生します。もともと徒然と撮っていた写真を徒然と載せていたので、ここで新たに「選定」の行為が入るのが面倒臭い・・・。
しかし、Googleフォト貼り付け、直らない。
そうして、何故か過去の投稿の写真表示されないケースが散見されるようになっています。これは、Googleフォトが原因かは分かりませんが。良く、過去のブログで写真が表示されないのを見ることがありますが、これって何が原因なんでしょうね、他の貼り付け方法だと大丈夫なのでしょうか?。
そろそろ、「Googleフォト貼り付けは使えない」という前提のもと、自分の中で新しい写真掲載方法と付き合っていくべき時が来たのかもしれません(というほど大袈裟なものでは無いか(笑))。
緊急事態宣言が解除されたとは言え、まだワクチンが出来たわけでは無いですから、根本的には解決していない状態で、生活していくことを「withコロナの時代」とか「withコロナの日常」とかって言っているのをテレビで聴きましたが、これからは「without google photo貼り付けのブログ」と向き合っていかないと行けないのかも知れません。
新たな時代が、やってきた。
そう一枚一枚アップロードしながら、徒然と感じました。
(つづく)